マルグリット・モーリー
・・・アロマテラピートリートメントの創始者

エッセンシャルオイル(精油・アロマオイル)

今では大都市の都心部はもちろん、かなり人口の少ない地方の小規模都市でも、アロマテラピーサロンやリフレクソロジーサロンを当たり前のように見かけます。サロンが日本の都心部で開業され始めたのは1990年代後半のことでしたが、わずか十数年で日本中に普及し、定着しました。


こうしたサロンでは、植物油(キャリアオイル)エッセンシャルオイル(精油)を希釈し、身体を塗布するアロマトリートメント(マッサージ)が行われています。男女問わず、心地よいトリートメントを受けたことがある人はかなりの数に登るのではないでしょうか。


サロンの普及は、マルグリット・モーリー ( Marguerite Maury )がいなかったら今現在でもなかったかもしれません。マルグリットモーリーは、現在では世界中で広く行われている「エッセンシャルオル(精油)を植物油に希釈して塗布する」という手法を開発し、世に広めた人物です。ルネ・モーリス・ガットフォセジャン・バルネと並んで3人の「近代アロマテラピー建設者」と称されることがあります。


マルグリット・モーリーは1895年にオーストリアで生まれ、ウィーンで育ちました。父は裕福な事業家で、帝政オーストリアの著名な画家、グスタフ·クリムトの支援者として有名でした。


オーストリアで最初の結婚をしますが、第一次世界大戦中に父、夫、息子の3人を相次いで失います。この悲劇は後の彼女の進む道に大きな影響を与えたはずです。悲しみから立ち上がり、モーリーは外科助手の資格(看護師資格の1つ)を取得します。これは当時女性が医療分野で取得できる最高位の資格でした。マルグリット・モーリーは一般的には「生化学者」として紹介されますが、大学院などの高等教育機関で化学の専門教育を受けたわけではありませんでした。


フランスのアルザス地方に移り住んだモーリーは、外科医の元で働いていた際にフランスのシャバーヌ博士(Dr. Chabenes)の著書、『芳香物質の大いなる可能性』(Les Grandes Possibilités par les Matières Odoriferantes)(1838年出版)を読み、大いに触発されます。以降この本はモーリーの「バイブル」となり、彼女のエッセンシャルオイル(精油)研究の基礎となりました。シャバーヌ博士は、後にルネ・モーリス・ガットフォセの恩師となった人物でもあり、ガットフォセの著書『Aromatherapie』(芳香療法)もマルグリット・モーリーの研究に大きな影響を与えたようです。


その後、ホメオパシー医であったモーリー氏と出会い二度目の結婚をします。この時、それまでのオーストリア名「マルガレーテ・ケーニヒ」からフランス風の「マルグリット・モーリー」へ改名します。二人は共に絵画や音楽、文学に造詣が深く、芸術の治癒的効果について共通の科学的関心を寄せていました。その後、ホメオパシー(同毒療法)、ナチュロパシー(自然療法)、整骨療法などの研究を共同で進め、成果を発表していきます。また、インド、中国、チベットの伝統医学に対しても造詣を深めていきます。


この間モーリーは、エッセンシャルオイル(精油)の神経系への影響とアロマテラピーの健康増進効果の研究を臨床と共に行い実証していきます。その中で、1930年代にエッセンシャルオイル(精油)を植物油に希釈して塗布する独自のトリートメント手法を開発、発展させていきます。


1961年にマルグリット・モーリーは研究の成果をまとめ、『生命と若さの秘密』(別題:『大切なもの〜若さ』 原題:Le Capital Jeunesse)を出版します。当初はフランスではこの著書はあまり評価されませんでしたが、1964年に英語に翻訳され「The Secret of Life and Youth」というタイトルで出版されると、イギリスで高く評価されるようになりました。イギリスでホリスティック・アロマテラピーが発展する基礎を作ったのがこの著書でした。


その後も非常に精力的に研究活動を続け、 ヨーロッパ中で講演やセミナーを開催して回ると共に、パリ、スイス、イギリスでアロマテラピークリニックを開業します。研究・臨床活動の中、モーリーはコスメトロジー(美容術、化粧品学)への関心を強め、「若さを保つための方法論」の研究に傾倒していきました。美容分野への関心からCIDESCO(エスティックおよびコスメトリジー国際委員会)の運営にも携わり、会長職にも2度就任しました。1962年にはスキンケア分野での貢献に対してシデスコ賞(美容学・化粧品学国際賞)を受賞しています。


同時期に活躍し、共に近代アロマテラピーの創建者と呼ばれるガットフォセジャン・バルネ博士がエッセンシャルオイル(精油)の薬理作用に関する研究を通じて、メディカル・アロマテラピーの基礎を確立したのに対し、マルグリット・モーリーは主として美容分野並びに芳香成分の神経系への影響に関するも研究でホリスティック・アロマテラピーの基礎を作りました。


平たく言えば、マルグリット・モーリーの業績によってエッセンシャルオイル(精油)が「癒し(ヒーリング)」と「美」を人々にもたらすものとして利用されるようになったわけです。エッセンシャルオイル(精油)の精神面への作用を重視し、心身を不可分の1つのものとして、その全体に対してアプローチするホリスティック・アロマテラピーは、その後イギリスで大きく発展していくことになります。


アロマテラピー関連の書籍などではほとんど紹介されませんが、マルグリット・モーリーは人を惹きつける強いカリスマ性があり、大変精力的で、天才的な人物にありがちな奇行がかった面があったようです。モーリーのアロマテラピー・サロンでは、施術を行うクライアントを嗅覚と触覚を通じて「陶酔させる」ことに重きが置かれました。これは芸術同様、アロマテラピーによってクライアントにある種のエクスタシーを与えようとするもので、ガットフォセ、バルネ博士が採った科学的アプローチとは方向性を異にするものでした。


こうした点から、マルグリット・モーリーのことをあまり高く評価しない人もいるようです。モーリーには後に活躍することになるダニエル・ライマン、シャーリー・プライス、ミシュリーヌ・アルシエらの弟子達がいましたが、モーリーの運営するサロン内ではクライアントを「陶酔させる方法」が弟子たちに「直伝」されていたようです。確かに科学とは異なる趣がある世界で、何となく如何わしいイメージを持つ人もいたようです。


またシデスコ賞を受賞したことが有名ですが(アロマテラピー検定によく出題されるモーリーの業績)、これも彼女自身が運営に大きくかかわっていた団体からの授与のため「お手盛り」ではないのか?という批判もあるようです。


とはいえ、現在のアロマテラピーサロンの普及、美容技術や化粧品におけるエッセンシャルオイル(精油)の有効利用を考えると、その基礎を作ったマルグリット・モーリーの業績は高く評価されるべきでしょう。


「芸術」と「科学」は本質的に異なる部分があります。アロマテラピーの施術が「芸術」に準えて捉えられるのであれば、モーリーの手法に必ずしも科学的でない側面があったとしても、それは彼女の評価を下げる理由にはならないはずです。


1968年9月25日にマルグリット・モーリーはこの世を去ります。臨終の間際まで、精力的に活動を行っていたようで、ベッドの傍らには執筆中の原稿が置かれていました。原稿の第一文目は「アロマテラピーは美容面で私たちに最高の効果をもたらしてくれるものです」( The aromatherapy involved in cosmetology can lead to the most extraordinary of results. )であったそうです。




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